心理的安全性の低い職場のマネージャーの特徴

久しぶりの投稿になります。

現在、私は教育機関で働いており、早いもので1年半以上が経ちました。

コロナやさまざまな世の中の変化がありましたが、日本の職場の風土や雰囲気はなかなか変わらないものだなと実感しています…

 

4月の組織改編があり、私が所属する課の課長が異動し新しい上司に。

それ以降、バタバタと人が辞め課員は半分にという状況です。

幸い、私は上司より知識と経験があるので重宝されており、直接的なパワハラや詰められる事はないのですが、、、

仲間が辞めていくというのは、結果自分の業務が増えるし、雰囲気も悪くなるしで嫌なものです。単純に悲しいですしね…

どこか理想の職場があると思っていたこともありますが、どこも職場は同じような問題を抱えているのだなぁと思います。

 

心理的安全性の低い職場の特徴

管理主義のマネージャーが現在課長です。上司としては、ロジックで詰め、部下の仕事を管理することで業務の遂行を目指しているようですが…結果部下が考えるのを放棄するような状況が出来上がってしまっています。

  • メンバーがマネージャーのOKを取るための提案や発言しかしなくなる
  • マネージャーのOK=OKのため、サービスの受けてや本来考えるべきことの優先順位が下がる
  • マネージャー以上の業務の広がりや創造性が失われる
  • 物理的に苦手な人との距離を取るようになる(報連相がなくなる、マネージャーの一つ下のポジションに業務が集まる)
  • マネージャーと共通の敵を作ることで、仲間意識を形成し気に入られようとする
  • ユニークな発言や、職場で常識とされていることに反対する発言が行われなくなる

現状このような組織コンディションになっています。

人間は基本的に否定されることが嫌です。(もちろん僕も)

特に自己肯定感の低い人や、自己評価が低い人ほど、自分が無意識に感じている無能感を強めてしまう結果になるため辛い状況になります。

その辛い状況を避けようと、取り入ろうとすることになるでしょう。

この時、本来であれば複数の視点・立場があれば(メンバー全員が同等の発言権を認められているなど)どこかでバランスを取りに行く動きがあるのだと思うけれど、心理的安全性の低い職場では、各々が自身を守ることしか考えられない状況なので、サポートが得られないことが多い。

結果、ターゲットにされた人間の心が疲弊して、辞めていく。そして次のターゲットに回っていくという構造なのだと思います。

 

そのような職場を作るマネージャーの特徴

  • 完璧主義の傾向が強く、部下の仕事への許容範囲が狭い
  • 自身が手を動かしてタスクを行うことをしない
  • 下のミスについては自分が責任を取るとメッセージをするが、あくまでも自分のミスは認めない
  • マイクロマネジメントになり、部下の仕事一つひとつを管理したがる
  • 上への報告や進捗報告では"良いこと"しか報告しない、もしくは"悪いこと"を報告する場合は、部下のミスとして報告する

上司自身も自己肯定感が低い場合が多いと思います。結果、いつもは一方的に詰めている部下から反撃された時は、すごく動揺してしまうので、本来の意味での信頼はされていない場合が多いです。

また、「部下のミスは自分が謝る」というのは響きは良いですが、本当の意味で自分は反省をしないで済むので、体裁に甘えている状態ですね。自分が手を動かしてタスクを行い、それがミスを起こした人間の反省とは程遠いものです。「部下のミス」という顔をしていれば心のダメージは少ないですからね。

 

このような状況はどこの職場でも多いのかもしれない…

というか、過去の日本的な価値観や組織理念(生産業的な)だとこのような組織が出来上がるのかもしれませんね。

自己肯定感の低さとワーカホリック、バーンアウト

以前ブログを書いた際からずいぶんと時間が経ってしまいました。

そして、世の中の状況もすごく変わってしまいました…

私の近況としては、今年の1月から教育業界で再度働いています。以前一緒に仕事をしていた上司からの声かけもあり

教育マーケ(適応障害で休職・退職)→IT業界マーケ→教育マーケ

と紆余曲折しながらも、前の業界に戻った形になります。

最初の数ヵ月は慣れない職場ながらも、以前の上司と同じ部署ということもあり、ある意味自由に、ちやほやされながら業務を行っていました。

慣れている業界や経験のある業務ということで、以前のITとは比べ物にならないスピードでキャッチアップができることもあり、仕事内容によるストレスは少なかったと思います。

 

そして、その後訪れるコロナ騒動…

その騒動や在宅勤務で感じたことを書きます。

 

ワーカホリックバーンアウト

コロナの状況で在宅勤務になった方って結構多いかと思います。

私もその中の一人です。コロナを機に在宅勤務になりました。

もともとITの時から若干のリモート勤務はしていたので、イメージはあったのですが、

在宅勤務を本格的に感じたこと

 

  • オフィスなんていらね~、めっちゃ自宅で作業捗る
  • 自宅の方がPCやらディスプレイやら通信やら環境良すぎ
  • とにかく四六時中働き続けてしまう…
  • 個人的に業務のスピードが上がるから、逆に仕事していない人を見てイライラする
  • どこまでの仕事量をやったらよいか分からず、とにかく不安になる

 

そんな風に感じながら業務を行っていくと、すごい量の業務を一人黙々とこなしていくことになりました。

そして、夜も休みの日も関係なく作業し、メールを送るようになっていました。

以前の経験もあり、自分は気を抜くとワーカホリック気味になる人間と理解していたので、うっかり今回もワーカホリック気味に…

そして、在宅勤務が続くと、他者の存在が分からなくなってくる。業務を進めて成果を出しても、だれからの反応もなく、

やるべきこと・今やらなければいけない業務を進めているはずなのに、なんだかなんのためにやっているのか分からなくなりイライラしたり、疲れを感じたりするようになりました。

 

他者からのリアクションがないと不安

これは心の根本にある、自信の無さが大きいと思います。

ワーカホリックになる人って結構優秀な人が多い、そしてずっと成果を出し続けている人が多いと感じています。傍から見ると超人的なアウトプットだったり、長時間の労働だったりと…

けど、そういった超人的な仕事ができる人には大きく分けて2パターンあります

  1. 自分が本当に好きな仕事をしていて、楽しくて仕方がない
  2. 成果を出し続けなければ、そこにいられなくなるという不安がすごく強い

どちらも表面上は同じかもしれないけれど、モチベーションの源泉が全く違う。

「楽しい」というポジティブなものか、「不安」というネガティブなものか。

そして燃え尽きてしまい、バーンアウトして心を崩してしまう人は後者のネガティブなモチベーションで働いている人なのだと思う。

 

「出世しなければいけない」

「成果を出さなければいけない」

「家事と仕事を両立して、迷惑をかけてはいけない」

そういって超人的な努力を重ねる。というか、不安で仕方ないから努力せずにはいられない、ストップをかけられないという人が働き過ぎてしまう。

本人が自身の心理的な強迫からストップをかけられないと意識できているならまだ良いけれど、

多くの人は自覚できないため、「会社のため」「部下のため」「家族のため」と大義名分を掲げ、なんとか自分を保とうとしている。そして自分が無理をしていることを忘れ、他人にも強要しだす。そういった悪循環があると思う。

 

そして、その超人的な努力を重ね続けた結果得られるものは何もない。

経済的な余裕や、会社での役職、トップセールスという肩書など表面的なものは手に入るけれど、本当の意味で得られるものは何もない。

それは、自分が「こうしたい」というポジティブな源泉からの行動ではないため、結果的に自分が自分に満足するということは何もない。

 

それに気づいたときに、人はバーンアウトしてしまうのだと思います。

 

自分が何を源泉に働いているのか見極める必要があるのではないでしょうか。

バーンアウトしないために、自分の行動の源泉に立ち返る必要があります。そして、まずはポジティブな源泉か、ネガティブな源泉かを把握してみると今の現状を俯瞰してみることができ、楽になるかもしれません。

 

 

自分らしいキャリアとは

こんにちは、今年は残暑が厳しくなく、真夏のピークは去ったと感じます。

ブログにも書いているよう、僕のここ2年はとても混乱したものでした。

異動をして、メンタルを崩し、転職して、なんとか安定してきた…

そんな中で、また転職の話が出ています。

というのも、以前一緒に働いていた上司から引き抜きの話をいただき、条件も良いため、そちらに行こうかと思っているところです。

まだまだ安定しない生活と心の中で、急速に自分のなかの価値観や世界観がガラガラと音を立てながら変わっていっているようです。

 

自分らしいキャリアってなんだろう?

「キャリア」というものを考えるときに、今までは漠然と日本での正しいルートとして、

教育→就職→老後

もっというと、働き始めたら「一貫性」のあるキャリアとして、一つの業界や業種で経験を積み、なるべく長く働き役職に就くことが理想だと思っていた。

さらに日本社会はその「一貫性」のあるキャリアを理想として動いている。

 

キャリアカウンセラーに話をさせれば「一貫性のあるキャリアを構築しないと自分の市場価値を下げます。短い期間での転職を繰り返すのは、印象を悪くするだけ」というでしょうし、

大学の就職課に話をさせれば「新卒採用で安定した企業、できれば上場企業を目指そう。そのためにも業界研究、自己分析をしっかりしよう」みたいな一辺倒なアドバイスしかでてこない。

 

けれども、それって本当に正しいの…?

そもそももっと仕事だけではなく、ライフキャリアとしての視点を持つ方が重要なのではないだろうか。

少し前に流行ったLife Shift

 

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 人生100年時代になると、働く期間が以前の世代の人とは違い、とても長くなる。

その時に、新卒で入った会社で一生働くというのはとても現実的ではない。会社が50年存在するかどうかも今の時代は分からないし、「仕事=我慢」の価値観では心も身体も100歳までもたない。

だから、これからの若い世代は選択を先延ばしし、大学卒業後に定職に就かず、さまざまな経験をする、もしくは働き出したあとに学校に戻り勉強をする。そうして、しっかりと自分にあうものを吟味した後にキャリアを選択する。

そんな説明がされている。

そうであれば、今のミレニアル世代が感じている違和感も説明できるのではないか。

 

特に日本社会は古い価値観を重んじている傾向が強いため、僕らの世代はとても窮屈に生きづらさを感じているのだろう。

新卒一括採用、石の上にも三年、飲み会、長時間労働 is Justice

今までの世界では、そのやり方が正しかったのかもしれない。それは認めるけれど、それをこれからの世界を生きる人に押し付けるのは違うと僕は思う。

なぜなら、これからの世界はどうなるか誰にも分からないし、その時の流れに身を置いている人しか感じることができない違和感や直感が正しいこともある。

僕としてはインターネットを中心に旧体制や既得権益などが、ぶっ壊されていくのを見ているのがとても面白い。

 

と、こんな変化の激しい世界ではなにが正しいのだろう…

 

自分らしいライフキャリアを

正解がない世界において、正しいキャリアとはなんだろう。

それはやっぱり「自分が幸せになるためのキャリア」である必要があると思う。

新卒で入った会社が嫌いで辛いのであれば、そこに3年いたとしても自分は「幸せ」なのだろうか。

子供との時間を過ごしたいのに昇進のために、デスクに朝から晩までへばりつくのは幸せなのだろうか。

これからの時代はラダーを上るキャリアではなく、ジャングルジムのように縦横を縦横無尽に移動し、時には降りることもできる柔軟な発想が求められているのではないだろうかと考えるようになってきた。

 

そして何より、「自分の幸せ」とはなにかを考えることがキャリアの形成につながるのではないだろうか。

 

僕の場合は、このままいくと20代で4社目となってしまう。

僕はそれがものすごく怖いし不安である、自分は絶対にならないと思っていた「仕事が続かない人間」になってしまうと思うとどうしようもない不安に襲われる。

もし次の仕事が続かなかったら、もう正社員になれるチャンスはないのではとも考えてしまう。

 

けれど

もしかすると「当たり前」とか「こうあるべき」といった価値観の壁を越えた先に「自分らしいユニークなキャリア」があるのかもしれないとも思う。

「自分はそんな人間ではない」と言えるように成長したのかもしれないし、

心理的には自分が差別したり、嫌悪したりするものに心の底ではあこがれているということもあるのかもしれない。

 

取返しのつかない人生を歩みだしてしまったと思う分、もう自分の人生を歩むしかないとも思う。言い換えれば、やっとこの世の中で自分しか歩めない道を進みだしたともいえるだろう。

 

この2年でここまで来てしまった。

適応障害からの自己実現。Quarter-Life Crisisについて

ブログでも書いている通り、

最近とても強く「自分の人生を生きたい」と願うようになってきた。

 

なんというか「自分の頭でずっと正しい・幸せになると信じてきたやり方や考え方が限界を迎えた感覚」を感じている。

大きなきっかけは昨年の適応障害だと思うけれど、それはあくまでもトリガーのひとつであって、自分の感覚を抑圧して生きてきたことが大きな原因だと思う。

今振り返れば、適応障害は自分がずっと信じてきたやり方、特に「一目置かれる存在にならなきゃ」という信念が限界にきた目印だったのだと思う。

 

 人生の1/4の時期の自我の危機「Quarter-Life Crisis」

そんなことで価値観の崩壊や再構築、自己実現や個性化などを調べていると

「Quarter-Life Crisis」という単語にたどり着いた。

人生の4分の1を過ぎたごろに訪れる低迷期のことらしい。

グリニッジ大学のオリバー・ロビンソン博士という方が、これに関して論文などを書いているようだが、日本ではまだ馴染みのない言葉かもしれない。

僕自身も初めて聞いた言葉だが、自身の状況を想ってみるととても納得感がある。

 

直訳すれば、「人生の4分の1の危機」こんな感じだろう。

こういった話をすれば、

25歳~30歳ごろでクオーターって何歳まで生きるつもりだよ。

そんなころに自分に迷ったとか言ってないで、とにかく働けよ。

そういったことを言う人もいるかもしれない。

 

けれど、そういった人たちはこの年齢であれば、こうあるべきといった考えや、

自身の中にある抑圧した思いを他者を批判することで収めている人達である。

それよりも、自分自身の声に従う方が意味があるものである。

 

 

僕自身も現在、30歳手前を迎え、

今までの人生の進め方や、信じていたこと、職業観や生きる目的などを信じることができなくなっている。

生きるためには、お金が必要で、その為にはある程度の地位で働き、自分の好きなことは諦める。そうやって生きてきたけれど、いま、まさに迷いがある。

 

このQuarter-Life Crisisはいくつかのフェイズに分けられるようだ。

 

・今までの人生で積み上げてきた選択や、仕事、交友関係に閉じ込められて、自分で人生を歩んでいないように感じてくる。

 

・そこから抜け出したいと思うようになり、逃げ出すことで何か変化を起こせるような気になる。

 

・仕事を辞めたり、自分を閉じ込めているように感じるものを壊す。タイムアウト期間に入り、自分について再考する。

 

・少しずつ、かつ確実に自分の再構築を始める。

 

・より自分や興味にあった環境を構築する

https://lifehacker.com/how-to-overcome-your-quarter-life-crisis-1782670670

 

こうやって、今までの自身の価値観や思考から抜け出す必要があるのだと思う。

きっとこれってユングの言う自己実現や、個性化の過程というものだと思うけれど、

なかなか簡単ではない。

 

適応障害や鬱は自分のやり方の限界の目印

「周りに迷惑をかけてはいけない」「自立しなきゃいけない」そうやってずっと頑張ってきた人がいる。その人はきっと、自分が無意識にそういった思いや縛りを持ちながら頑張っていることに気が付いていないだろう。

その人にとっては鼻で呼吸をすることのように、あまりにも当たり前過ぎて自分のやり方が間違っているなんて気づかない。

けれど、長年かけて抑圧し続けた「本当の想い、本当の自分」はどうにか表に出たがってくる。

 

抑圧し続けた本当の自分のSOSが鬱や、適応障害だと僕は思う。

もしかすると、環境の良い職場や劣悪とは言えない人間関係のなかにいたら、誤魔化しがきいてしまい、SOSの声を聴くのがもっと遅くなってしまったかと思う。

もしかするともっと遅くなっていたら、気づいた時には取返しのつかないことになっていたかもしれない。

 

僕は昨年の適応障害を機に、自分の無意識や本当の部分にフォーカスをしようとあがいてきた。

20代中旬で意識と自我の限界を感じ、なんとか生きていくためにずっと押し殺してきた本当の自分を見つめる作業。

これがQuarter-Life Crisisなのかもしれない。

 

ずっと気付かなかった、押し殺して押し殺して、殺したことも忘れた本当の自己に光を当てることはとてもリスクのあることである。

けれど、その作業の先にはきっと自分らしい、よりひらけた未来と自分が待っていると信じたい。

 

自分とはなにか、自我の崩壊と再構築を考える

僕はずっと、その人の人生において幼少期に育った環境は大切だと思っていた。

10代で起業したとか、

フランスの大学でファッションを学んだとか、

ハワイで生まれ育ちモデルをやってるとか、

ずっと羨ましかったし、妬ましい気持ちを持っていた。

 

小さい子供は、自分がやりたいこと・ほしいものを選択するより、

他者、特に両親が期待することや、選択してほしいことを選ぶ傾向にあるらしい。

そんな心理の中で人が育つとしたら、家庭の影響はものすごく大きいものである。

そして、「持っている者」と「持たざるもの」は大きく違って育ち。

分かり合えないくらい、別の生き物として成人していく。

 

人間には、いくつかパターンがあると思う。

・家庭や両親に恵まれ、自分という個を尊重してもらい、愛を全身で受けて育った人

・環境に恵まれず、人を傷つけたり、自分を無碍に扱いながら育ち死んでいく人

この2パターンが多いと思う。

 

ただ、もしあなたが生きづらさを抱えていたり、

自分ってなんだろうという感覚をずっと抱えていたり、

病気を患い、もう変わりたいと願う人であるならば、

きっと

・環境に恵まれず、良くない思考パターンを身につけたけれど、本来の自分がそれを認めず、自我を自ら壊し再構築する人

というもう一つのパターンなのかもしれない。

 

そういった人が環境によって作られた自我を壊し、

本当の自分を発見し、自我を再構築して生き始めたならば、

ものすごいエネルギーに満ち溢れるし、周りの人を幸せにするのだと思う。

「両親が音楽家だから、音大を出てピアニストになりました」みたいな人では絶対に表現できないエネルギーを表現できる人になるのかもしれない。

 

そんな風に最近考え始めました。

今までの人生で少しも考えたことがなかった「自分の生きる意味」みたいなものを、少しずつ考え始めた。

自分の魂や運命なんて、スピリチュアルでバカバカしいとすら思っていたのに、

今はそういった「自分が生まれた意味」に従っていきたいと思っている。

 

バスカリアの本の中で、こういった話があるらしい

人が死に神の前に行った時問われるのは

「なぜ成功しなかったのか?」ではなく「なぜ自分自身を生きなかったのか?」である。

 

今の僕がそれを問われたらなんと答えられるだろうか。

 

「自分したいこと・好きなことが分からない」の心理

自分のしたいこと・好きなことが分からない人って結構多い

自分探しの旅をする人はいまだにいるし、運命の人を待っているひともいる。

実際に、自分のしたいこと・好きなことを問われた時に自信を持って「これ!」といえる人って多くない気がしています。

 

特に大学生や、自分のキャリアを考え出した人はこういった思いを感じているのではないでしょうか。

僕自身、自分の求めているものが全く分からなかったし、就職活動をするときの多くの人がする「自己分析」も全く機能していなかったなと思い返します。

 

自己分析をするにも、自分の思考の枠の中で考えていては意味がない

僕の場合、就職活動をする際に「親に迷惑をかけないために、まずはそれなりの大手に内定をもらう」と考えていました。これはある意味、とても正しくて、兄がニートをしていた僕のバックグラウンドとしては必然であるような気がします。

そんななかで、卒業後は就職をせずに海外に進学する人や、デザイナーとして非正規で働くと明言している同級生を見ては、「自分とは違う」と言っていました。

 

この時点で「自己分析」なんて出来やしないですね。

 

本当の意味で自分を分析するなら、なぜそういった人たちは「自分とは違う」と思うのか、心の底にうらやましいという思いがあるのではないか、

そしてそれは「なぜか」を問うていく必要があるのだけれど。

 

文章にするととても簡素なことのように見えますが、こういった自分の思考の枠を超えられない人は多くいると思います。

実際にそういった可能性を広げる思考の方法や、心理の癖を考えるヒントを与えられる人もほとんどいない。これが僕は大学のキャリア教育の問題点だと考えています。

その人のキャリアを考えたときに、本当に必要なことは、その人自身が持つユニークさを引き出すことなのではないでしょうか。そのユニークさと社会性をうまく共存させるヒントを与えることなのではないでしょうか。

 

そして、大学生だけでなく、多くの人が自分の思考の枠の中で一生を終えていくのだと思う。

 

自分の好きなことはなに?

こう問われた時に自信を持って答えられない人は、一度自分の幼少期を思い出してください。できれば、簡単に思い出せないくらい幼少の記憶。

 

きっとそういった人たちは「自分の好きなこと以上に、すべきことがある」という思考を無意識のうちに身につけてしまっているのかもしれません。

たとえば、幼い時に絵を書くことが好きだったけど、「男の子は外で遊びなさい」と大好きな母親に言われ、「絵を書くこと」を捨てたことや、

 

もっと言うと、障害を持っている妹・弟のために遊ぶことを泣く泣く捨ててしまったこと。

 

極端な話かもしれませんが、そういった自分の感覚を捨てたことが、

「自分のしたいこと・やりたいことが分からない」の心理に繋がっているかも。

 

自分探しでインドにいくより、自分の過去の深いとこまで潜っていくほうが

自分は見つかるかもしれません。

 

過去でなくても良いのですが、自分の心の深い底まで探検して

ずっと昔に捨ててきたものを拾いあげて、きれいに磨いてあげることが、本当の自分に出会うひとつの方法かも。

メンタルを崩し休職する人は弱い人間なのか

このブログを読んでくれている人がいるようで、自身の経験を赤裸々に書いていて本当に良かったなと思う日々です。

なんとなく、このブログに検索でたどり着く人は「休職」というキーワードで検索した結果のようですね。

 

自分も職場の異動を機に、心身のバランスを崩して、休職、すぐに退職した人間として色々と思うことがあります。

そして、いま新しい職場で働いており、この転職が本当に良かったのかと振り返ることもあります。

 

メンタルを崩し、休職する人は弱い人なのか?

自分自身でも自分が適応障害になるなんて想像していなかったので、その時はずいぶんと落ち込み、自分を責めました。

ネットで検索すれば「適応障害 甘え」なんてサジェスチョンも出てきて、本当に自分のことを不良品のように感じることもありました。

けれど、断言できます。

メンタルを崩し、休む人は決して弱い人ではないと思います。

むしろ、そういった人は責任感が強く、職場で頼られるような人にも多いはずです。

幼少のころから、頼るものなく、なんとか自力で生きてきたような人が限界を迎えた時にこういった状態になってしまうのではないでしょうか。

 

僕は「適応障害なんて甘え」と言っている人なんて信用出来ない人間だと思っています。

めちゃくちゃ甘やかされて育ち、間違った自尊心を持っている人か

自分の低すぎる自己肯定感を他人を否定することで満たしている人か

そんなやつらの言葉には耳を貸さない方がよいでしょう。

むしろ、そういった人たちの言葉だけを今までの人生で信じてきてしまい、自分の声を聴かなかったから限界が来ているのです。

 

まずは自分のために、勇気を持って休むことが必要。

心からそう思っています。

 

少し休むことが人生には必要です。

そして少し休んだら、ちゃんと頭が働くはずです。

それから、考えれば大丈夫です。